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携帯をようやく機種変更しました。
今までスペアのボロ携帯を使っていたので画質の向上に狂喜するばかりですが。
というのも先々代の携帯が当方の乱暴な扱いのせいでデータ・電源が吹っ飛んでしまったのがそもそも悪いんですけど。
兎に角携帯の画質がいいって本当に素晴らしい。
さて、最近読んだ本について
「アーティスト症候群」 大野左紀子
「元アーティスト」であった著者が世の中に氾濫する「アーティスト」という呼称、そしてそれに固執する人々を斬りまくる一冊。
アーティストという表現に対するモヤモヤした感情。
この本は常にそういったものを何処かに持っていた自分に特別新鮮な切り口を見せてくれた訳では無かった。
また著者のかなり一方的な主観的見解も多く見られ、「評論」として見るにはどうかなと思う点が無いでもない。
ですがこれはこれでかなり面白かったです。
所謂「アート」の基部を学び、その表現活動にかつて身を置いていた人間が今のこの現状・アーティストという表現に対してここまで率直に物を申した書は今までありそうでなかったのでは。
娯楽感覚でさくさく読める一冊。
ミュージシャン、クリエイター、美容師等各分野において使われるアーティストという呼称について章分けで言及していますが特に面白いのは「芸能人アーティスト」を名指しで斬る章。
工藤静香、片岡鶴太郎、藤井フミヤと言った痛い人々をばっさばっさと斬りまくる様は圧巻。
特に工藤静香のデコトラのネタには思わずカプチーノを吹いた。(真面目に)
一方でかつての(或いは今も)自分にもあてはまる事をずばりと言い放たれてぎくりとなる箇所も所々で見受けられましたが......
「基本を軽視するのは、プロセスが面倒臭いからである」
別にアートというものに限らずに「格言」として成り立つ言葉だが所謂「アート」について言われると色々と思うことがある。
別格的な存在として憧憬の対象となりうる「アーティスト」と言う独特の響き。
実がそれはアートに対する認識がフラットになった現代において「個性」という表現上の武器をもったことで人々の間で知らず知らずの内に「容易で軽い」存在となり、それは「核」が浅いステレオタイプの量産に繋がった。
それでも尚、「アーティスト」という呼称・ポジションはその絶対的なブランド力を失わずに人々を惹き付ける。
人間個人が「盲目的な自信」を潜在的に持ち続ける限り、そのブランド力も永遠不滅なのだろう...... 恐らく。
ところでアートというものからは離れてしまいますが.........
自分も今の現状に対する盲目的な視点をいい加減に捨ててそろそろ本気で現実的になろうと思います。
色々な意味で。
◆本日の一枚
Linton Kwesi Johnson 「LKJ In Dub」
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