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寒い季節のロシヤ文学 4

ドストエフスキー  「悪霊」


ロシア文学界のみならず、19世紀文学を代表する巨匠・フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー。
言わずもがな、日本人にとっても古くから親しまれてきた外国の作家の一人です。
ドストエフスキーの作品というとその特徴の一つとして特に後期の大長編群に顕著ですが独特の宗教色が挙げられる。
ドストエフスキーの作品に苦手意識を覚える人はやはりこの点が大きいのではないでしょうか。
しかし、にも拘らず現在においても異文化の日本人にとっても彼の作品は「外国文学」の代名詞と言っても依存の無い程の存在であり続け、絶大な一般支持を得ている。
これは彼の作品が単なる「説教臭い物語」でないことの何よりの証明でもあるし、そもそもその「宗教的な要素」というのも近代の原理主義的な側面を露骨に示すような単純で安直な代物ではない。

「悪霊」はドストエフスキー後期の代表作の一つ。
最近、「罪と罰」を現代日本を舞台にアレンジした落合尚之作の漫画が話題になっていますが今風の漫画としてアレンジするとしたら画的に最も映えるのは間違いなくこの作品でしょう。
ドストエフスキーの作品はどれも登場人物が濃いがこの作品の登場人物達は特に「濃い」です。正に曲者揃い。

容姿端麗・明晰な頭脳と並外れた体力を持ち、同時に悪魔的な感化力・カリスマ性、絶望的なまでに虚無的な人格を持つ男・主人公であるニコライ・スタヴローギン。(この要素で腐女子が飛びつかない訳が無い)

ニコライを崇拝し彼を伝説上の「イワン皇子」として祭り上げようとする「革命組織」のリーダー、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー。

ピョートルの組織のメンバーでありながらも思想の相反から脱退を表明。ロシア人こそが人類を救済する唯一の神の体得者でありやがては国民が神となるであろうというロシア・メシアニズムを説くシャートフ。

子供を愛する優しい心を持ちながらも、完全に当人にとって至高の自由とは「自殺」であり、その不服従の我意を決行・証明することにより「人が神となる」と説く狂信的人神思想・無神論に憑りつかれたキリーロフ。

ピョートルの父であり元大学教授、元家庭教師であった繋がりからスタヴローギン家に居候する旧世代のリベラリスト、ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキー。

ニコライの母にして社交界への復帰を望み、居候のステパン氏と愛憎劇を繰り広げる裕福で勝気な地主ワルワーラ婦人。

と言った具合に..........
(ツルゲーネフがモデルと言われるカルマジーノフもこれまた滑稽な描かれ方をするが.........)

彼の諸作の中でも非常に難解な部類の作品であるとよく言われる。
実際かなり難解だ。解釈も多様で現在でも体系化された定説的論評などほぼ存在しない。
しかしドストエフスキーの長編の中ではかなり「動」が目立つ作品であるし(前半はややダラダラしているが後半、醜悪な茶番劇同然の「祭り」の幕開け、街の火事、動き出すピョートル率いる「組織」 と、 物語は畳み掛けるように展開していく)決して読みにくい作品ではない。
ひたすらヘヴィーな「カラマーゾフの兄弟」等に比べれば余程読みやすいです。
ただ、内容が兎に角複雑で難解。

物語が難解なのは登場人物のキャラクター・ポジションが非常に「思想」として象徴的であること、主人公が誰であるのか分かりづらいこと(語り手がステパン氏の友人である「私」であることも混乱の要因)、主人公たるニコライ・スタヴローギンのキャラクターが謎めいている事、物語中では最期まで説明・語られることも無く、謎のままに中途半端にされてしまっている箇所がいくつかあることなども確かにありますがやはり物語を読み解く上で間違いなく重要な章である「スタヴローギンの告白」が本編とは別個の、独立した章として存在している事実が大きいような気がします。
これはどういうことかというと「スタヴローギンの告白」は本来、本編の収まるべき一部であった訳ですが「少女陵辱」というあまりにショッキングなテーマが生々しいタッチで書かれた内容であった為、悪霊が連載されていた新聞側では掲載を拒否。
止むを得ず本編から削除された上で後半の構成は大幅に修正されるという複雑な経緯を含んでいる。
その為、「スタヴローギンの告白」は長らく幻の章となっていた訳でこの原稿が発見されたのは20世紀に入ってからのことである。
前述の通り、この章はあくまで本編とは切り離された章であることには違いないのですがニコライの虚無的人格を指し示す非常に重要な箇所であり、尚且つチホン神父とニコライの鬼気迫る赤肌かな対話はその圧倒的な緊張感からいってもドストエフスキーの作り上げた文章の中でも最高峰のものの一つと評されています。


文化的なものであれ、体制的なものであれ、あらゆる形にせよ存在する西欧諸国に対するコンプレックス、そこから必然的に生じるアイデンティティの模索はロシア文学のテーマにも非常に深い影響を与えている。
ドストエフスキーの作品において西欧の無神論を初めとする新思想に対する危機意識はよく見られるものですがこの作品では兎に角それが生々しく直球的です。ソ連時代には革命を中傷する悪書と見られていたのも実に自然な話だ。
物語は19世紀中期、ロシアで実際に起こった秘密結社内部での同志殺害・処刑事件、所謂 『ネチャーエフ事件』 に着想を得て書かれた。
タイトルの「悪霊」とは新約聖書におけるルカ福音書・第八章 三二ー三六節からとられている。
即ち、人から出でた悪霊が豚の群に憑りつき、崖から湖に飛び込み悉く溺れ死ぬ  という箇所。
西欧から流れ来る無神論や革命思想・ニヒリズムを「悪霊」にみたて、彼等は無神論者に憑りつき溺れ死に、やがてメシアたるロシアは癒えるだろう  と  言うものである。

しかし思想文学「悪霊」は更にずっと複雑。

ニコライ・スタヴローギンはそのあまりに絶望的な人格から 「悪魔」 等と評されることも多いですがこの作品での彼のポジションは正しく「ロシア」の姿そのもの、またその悲劇性、或いは危険性の象徴に思える。正確に言えば悪霊に憑りつかれた人間達によって醜く祭り上げられた「空虚なロシア・神を失ったロシア」のアイデンティティ喪失に苦しむ姿。(ちなみにスタヴローギンはロシアの無政府主義・無神論者、バクーニンがモデルと言われる)
悪霊に憑りつかれたる豚、「神を失った人間」、革命家ピョートルはイワン皇子・即ち「メシアとしてのロシア=スタヴローギン」を祭り上げようとする。(レーニンによる社会主義革命の暗示的予言ではないか!)
しかし繕われたニコライはメシアなどではなく、贋物の自惚れに過ぎなかった。ニコライと秘密の婚約を交わした白痴の女・マリヤは「あんたは皇子じゃない」と見抜き、言い切る。
それどころかニコライはその内部から悪霊を媒介し、シャートフとキリーロフという象徴的人格の人間を作り出した。
そしてニコライが決定的に悲劇であったのは彼が理性はあるが一切の思想は持てず、何処までも虚無的で無関心な人格であったこと、即ちあらゆる意味で究極的な「ニヒリズム」の権化そのものであったこと。
それ故に彼は新世代の「革命思想」に共鳴・追従することも出来ず、あの悲劇的なラストへと繋がっていくのである。

ステパン氏は病に咽びながらも悪霊に憑りつかれたる人間達(疑いようも無く息子ピョートルはネチャーエフである)にも偉大なる思想が宿されていると説く。
愛、崇高で永遠なる信仰を失おうとしているロシアを嘆き、ただ、「知らぬ為」に破滅へと突き進む彼等に「もう一度会いたい」と漏らす。
この作品が真に難解であるのは農奴開放後の混沌としたロシアの姿を最も象徴的に表している点にあると思う。
しかし、作品全体に流れる国家・それを構成する人間への生命賛歌を見たときにやはりこの作品に対してもドストエフスキーの諸作に共通に流れる一つのテーマを感じます。


..................................

それにしてもやるせないというか本当に救いようの無い物語だ。
登場人物の殆どが精神的・肉体的に破滅します。

シャートフの妹・ダーリヤと福音書売りのソフィヤの存在ぐらいしか救いが無いです。


ところで前述の「罪と罰」の漫画版。

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去年知人に借りて読んでみたんですが面白かったので結局出てるところまで全巻揃えてしまった。
物語のエッセンスとしてドストエフスキーを原作としているものの、単なる現代アレンジではなくまったく独立した作品として昇華しています。
非常に丁寧な作風。 お勧めです。
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寒い季節のロシヤ文学 3

プーシキン  「大尉の娘」


近代ロシア文学の父とも称される大文豪、A.C.プーシキンを抜きにしてロシア文学を語ることなど到底出来ない話であることは言うまでも無い。
彼の創始した文体・文語の影響を受けていないロシアの作家はほぼ皆無とすら言われます。
と......言ってもやはり詩は原語で味わう以外にその本質を楽しむ術は無い。
日本人からしてみれば当然ながら彼の詩は今ひとつ馴染みの薄いものとなってしまっているし、プーシキン自体の知名度も一般的にそこまで高いとは言えない。否、「プーシキン」の名は知っていても作品そのものは読んだ事の無いという人が兎に角多い気がする。
また、そもそもロシア文学に関する翻訳・研究が進んでいるはずのこの日本においてもプーシキンの翻訳というとやはり数が少ない気がします。
彼の散文小説は基本的にそこまで大長編も無い上に比較的読みやすく、ロシア文学が苦手という人にも割とお勧めなんですが。

プーシキンの小説といえばなんといってもチャイコフスキーのオペラ化でも知られている「エヴゲニー・オネーギン」が有名ですが(特にタチヤーナの姿はロシア文学のヒロイン像の一つの原点として後の作家に与えた影響大)訳の問題もあると思いますがプーシキン本人の仰々しい語り口が少々つっかかる人もいるかもしれない。
と、言うかオネーギンはそもそも詩小説として書かれたものなのでやはりその文章の本質(つまりは韻)を味わうためには原文を読むしかないのかもしれない。

そんな背景もあり、プーシキンを読むにあたる初めの一冊として挙げたいのはやはりこの「大尉の娘」であったりする。
書き上げられたのは決闘により死亡する数ヶ月前、彼の最晩年の作品です。
18世紀、エカテリーナ二世の治世に起こったプガチョフの乱を題材に主人公ピョートルの愛と冒険(......て言い方をすると少々ディズニーっぽくなってしまうか)を描いた一種の歴史小説です。
貴族の家に生まれたピョートル・アンドレーイチ・グリニョフは父親の言い付けによって辺境の要塞に配属させられる。
そこでの司令官一家との交流、司令官の娘であるマーシャとの恋、後に裏切り者となるシヴァーブリンとの確執、やがておこるプガチョフの乱と要塞に降りかかる災難、そしてプガチョフとの奇妙な友情を淡々としたタッチで描いていく。ダラダラとした所も無く、単に物語としても面白いし非常に読みやすいです。

プガチョフの乱と言えばロシアの歴史上最大規模の大農民反乱として名高い。首謀者であるプガチョフはドン・コサックの出身。
(ちなみに「コサック」とはウクライナ南部・ロシアの辺境に移住した農民を起源とすると言われる半独立軍事共同体。その騎兵はユーラシア最強とも言われ帝政ロシアの重要な軍事力として奉仕し、シベリア進出を初めロシアの領土の拡大にも大きな役割を果たした)
18世紀の中頃、帝政ロシアにおいてますます拡大する農奴制に反発する農民を中核とした反乱軍を組織して決起、農奴制からの開放を掲げ自身はピョートル三世を僭称。
社会の底辺に位置していた労働者やバシキール人を初めとする辺境の少数部族をも反乱軍に巻き込み、プガチョフの乱は帝国内における一大内戦へと発展した。
プーシキンはこの事件に多大な関心を寄せており、オレンブルクを初め戦いの舞台となった現地を自分の足で歩き、司馬遼太郎並に徹底的にリサーチ。本作とは別にプガチョフの乱についての史書も執筆している。
主人公であるピョートルも実際の事件でプガチョフ軍の捕虜となった士官、シヴァンヴィチ少尉をモデルにしていて彼の存在もリサーチ作業において知ることになったそうです。

この作品において特異な描かれ方をしている人物を一人挙げるとすれば他でもない、プガチョフである。これはプーシキンの歴史観の独創性を証明する要素でもあると思います。
当時、事件からそれ程遠い時代という訳でもなかったプーシキンの時代においては歴史に残る大反逆者・極悪人として見られていた、にも拘らずプーシキンはこの「悪人」を人間味溢れる人物として、また仲間に裏切られる哀れな首謀者として非常に同情的に描いている。その同情を寄せるのが何を隠そう、義理に基づき命を助けられた主人公のピョートルなのだ。
やや滑稽な人格ながらも義理人情に厚く、また部下の非情な行為は許さない。一方では自らに屈せずに皇帝側に付こうとする人間は容赦なく処刑する残虐な側面も描かれる。
こうしたプーシキンのプガチョフ像は中央政府の目が光っていた当時、かなり挑戦的であったことは言うまでも無い。つまり問題作であったはずです。
プガチョフだけではない、農奴制や少数部族の問題も広角的に捉え、関心を示していたプーシキンはそれらの問題も作品の中に取り込んだ。
捕虜となって残虐な拷問を受けるバシキール人の凄まじい描写などは主人公ピョートルの口からも語られる通り、明らかに「理由ある暴力」を「暴力」で鎮圧したロシアの正義に対する疑問符でありアンチの姿勢でもある。
これはチェチェン問題を抱える現代ロシアにもまったく同じ事が言えるのではないか。

捕虜になりながらも誠実なピョートルは自らの義務としてプガチョフに寝返る事は出来ず、また中央政府を盲目的に美化・過信したりもしない。
逮捕されたピョートルの潔白を女帝に訴えるマーシャの純真な姿に象徴されるように恋愛小説としても知られる本作ですが誠実善良な人格であるピョートルの目を通して多角的に、また偏り無く中性的に描かれるプガチョフの乱は広大なロシアに生きる様々な境遇の人民、また異民族・人種に対するプーシキンの愛情に溢れた公平で広い視点・史観が垣間見れるような気がします。

スタバ某店で店員さんが声を揃えて


メリークリスマス!!!!!!!!!!!


と大声でコールしながら働いてたんですが
正直威圧以外の何物でもなかったのだが。

そういえば某所では(イルミネーションの前ですよ)
女子大生と思われるグループが何かのステージで下手糞な発音で英詩の歌を歌っていたが..........
威圧とは違いますがなんか


もっと私達をみて!!!!!!!!!!



みたいな感じでどうも嫌らしい印象を受けてしまったのだが
少しへそ曲がりかな?

こんばんは|ω・`)




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寒い季節のロシヤ文学 2

ブルガーコフ   「巨匠とマルガリータ」


ロシア文学というと基本的に「暗い・長い・説教くさい」という先入観としてのイメージを一般に持たれてしまっていると思うのですがどうだろう。
「ロシア文学」というと多くの場合19世紀のものを指しますが20世紀ロシア文学というと更に「暗い」イメージが付き纏う。
時代背景として共産主義の台頭が背後にありますがゴーリキーに象徴される社会主義リアリズム文学、ソルジェニーツィンやプラトーノフのような体制批判文学などがそれに当たる。
この作品は日本では知名度が極端に低いですが(その割りに現在入手しやすい翻訳が三種類も存在する)このようなブラックファンタジーの存在はある意味20世紀前半のロシアでは異質であったかもしれない。
そういえばちょっと前のiichikoでブルガーコフの特集が組まれてたんですがそこに載せられていた「巨匠とマルガリータ」の各国で出版されてきた本書の表紙・装丁デザインがまたどれも素敵だったのである。
多くはヒロインであるマルガリータと人気キャラのベゲモートがモチーフでしたが。

舞台は20世紀のモスクワ。
この都に突如現れた悪魔ヴォランド一味(※)が引き起こす騒動、それに並行する形で本作の主人公たる「巨匠」の作品の中で語られるキリスト処刑前後のエルサレムでの総督ピラトを中心とした一幕が語られていく。
そして交差するマルガリータと巨匠のロマンスがこの作品の主軸である。
独特なユーモアと時代を先取りしたかのような描写・表現、兎に角不思議な雰囲気を持つ作品。


黒い右目と緑色の左目を持つ外国人風の身なりをした悪魔ヴォランド
減らず口ばかりたたく猫のベゲモート
高身で格子縞のジャケットを着た催眠術師のコローヴィエフ
牙をむき出した射撃の名人アザゼロ
裸の美女のヘルガ

奇妙奇天烈な面々


ブルガーコフは今日では20世紀ロシア文学を代表する巨匠として知られていますがその生涯は悲運そのものでソ連当局から体制批判分子と見られ、「白衛軍」をはじめ多くの作品は発禁処分を受けた。
晩年に書かれた「巨匠とマルガリータ」は誰もが彼の最高傑作としている作品ではあるがスターリン体制化の30年代のソ連では到底出版できるような内容ではなかった。
この長編小説が日の目を見たのは彼の死後、スターリン体制以後のことである。<しかしスターリンはブルガーコフの作品そのものは気に入っていたと言われている>
出版されるやいなやソ連国内で大きな話題を呼び次々と各国語に翻訳、不死鳥の如く蘇った作品は彼の名の再評価へと繋がった。
今や巨匠とマルガリータはロシア人の国民的愛読書としてドストエフスキーやトルストイの長編を上回る人気を誇っているそうです。
悪魔ヴォランドが「原稿は決して燃えない」と言い、焼けて灰となった巨匠の作品を奇跡によって蘇らせるシーンには不遇の環境で晩年を過ごした一人の作家の自身の作品の不滅を信じる意思が込められているとよく称されますがこの「復活劇」からわかるように正にこの作品の運命に対する作者自身の予言そのものとも言える。
また、ブルガーコフが全体主義としてのソ連、それに属するロシア国民の不条理を自身の作品の中で明確に皮肉って表現しようとしたのかは分からないがヴォランド率いる悪魔の一味に翻弄されるモスクワ市民の醜い姿は正に現代人に対するドギツイ風刺である。
冒頭、ヴォランドに「あなたは青年共産党員の女に首を切られて殺される」と予言され結果的に本当にそうなってしまう(不慮の事故で)ベルリオーズの場面等は成程、スターリンによる粛清の嵐が吹き荒れていた30年代ロシアのブラックな風刺そのものと言えます。

それにしても特に主張したいのは..........
この作品全体に散見されるサイケデリックとも言うべきシュールな描写の数々。
70年以上前に書かれた作品としてはかなりあくが強い。
「裸の女性が箒や豚となった人間に跨って空を飛ぶ」という表現やヴォランドのグロテスクで奇妙極まりない舞踏会の描写など正に。
この作品が翻訳され世界全体で出版されたのは66年、ちょうど世の中がマリファナと共にサイケデリックな文化が絶頂期を迎えようとしていた頃ですが時代的にもマッチしていたのかも。
そういえばローリング・ストーンズのミックジャガーは「Sympathy For The Devil」(悪魔を憐れむ歌)の歌詞を書く際にこの作品から多大なインスパイアを受けたという有名な話がある。

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寒い季節のロシヤ文学 1

ゴンチャローフ   「オブローモフ」


19世紀ロシア文学黄金期を代表する作家の一人として揺ぎ無い認知を得ているゴンチャローフ。
その代表作「オブローモフ」も同様にロシア文学を代表する一作なのではあるが何て言いますか、所謂「文学」と言われる類のものが好きな人の中でもこの作品をスルーしている人って何気多いのではないだろうか。
これを読んだことのある人と言うのは余程のロシア文学好きか暇人だろう。(言い過ぎか)

そこそこ長い作品であるとはいえ決して読みにくいと言うわけではないが.....  ダラダラしてて少々たるいですね。
第一章ではオブローモフの夢の中の描写を除けば彼の部屋の中から一歩も外の世界に出ていない。
第二・三章ではオブローモフとオリガの助長に感じられる恋愛描写が延々と続く。(て言うかゴンチャローフって生涯独身だったというのに恋愛心理描写はびっくりするくらい精密です)
これだけでも途中で折れる人が出てくるのは目に見えている。
しかしこの作品が長い前置きから動きを見せ始め、その本質を曝け出すのは最終章の四章であるのですが......... (シュトルツの友への友情にはほろりとくる.......)

高潔で汚れの無い優しさに溢れた心を持つが世の中全ての物に対する無気力・倦怠感に陥り、それが骨の髄まで染み付いてしまっているが為に領地の整備もせずにいつまでも精神的に眠り続け、無為の生活を送る男・主人公であるイリヤー・イリッチ(オブローモフ)。
「進歩派」であり「活動家」、倦怠を嫌い常に生活の中に存在する勤労を忘れることのないオブローモフの友人、シュトルツ。
互いに異なる生活環境で成長したが故にそれぞれ異なる点において精神的純粋さを守った結果、対象的な性格を持ち合わせることとなった二人の人物の対比を軸に二人の間で揺れる女性、オリガの姿を通し「社会的人間としての『生活』とは何か」という問いを色々な面から突きつける作品。

勿論舞台は農奴制の上に地主・貴族制が成り立っていることが背景にある19世紀ロシア、現代とシュチエーションにおいてそのまま置き換えることは出来ないがそれでも
圧倒的なリアリズムと「警告」をこの作品は現代人に与える。
ドストエフスキーのどの作品よりも、です。
オブローモフは今で言う「ニート」である。
自分一人では何一つすることが出来ず、子供の頃に育まれ、精神的に植えつけられた桃源郷の幻想によって現世に溢れる困難に打ち勝っていこうとする意思の力・忍耐力は奪い去られ、ついには愛の感情でさえも彼を深淵から救い出すことは出来なかった。
彼の悲劇は慢性的倦怠感により身も心も自身の未来も蝕まれ尽くされてしまったことによる。

しかし

ラストのオブローモフの姿、即ち無用者でありながら自分なりの「平穏」を手にし死んでいった姿からは果たして何人においても、いかなる場合おいても「未知の外の世界の空気に触れること」「先へ進むこと」が当人にとって幸せと言えるのか。
そんなことを考えさせられます。

そして彼の死後も不器用な召使ザハールやおかみのアガーフィヤは彼への忠誠・愛情の念を捨てなかった。
寝ているばかりで何も自分ではすることが出来なかったオブローモフもやはり、本質的に無用者では無かったのである。
取るに足らないと思われている人物への無償の愛情、やはりこの作品もロシア文学の明確な血筋を引いている。
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かつてこのトンネルの向こうにお気に入りのカフェがあったが今はもう存在しない。

周辺、「他」はなにも変わっていない。
ここを通る度にその雰囲気だけが今も残っていて何とも胸を突く。

こんばんは。
最近はまた腰痛が惨くなりだした二十四歳になったばかりの著者です。




洋書等でよく見かけるあのペーパーバック仕様って好きです。
ざっくり読めるというか読んでいたページもパラパラとすぐに開けるし凄く読みやすくていいと思うんですけどねあれ。
伝統的な日本のカバー付き小説の方が装丁も紙の質も上ですが読みやすさで言えば個人的には前者です。(て言うか僕の場合指が無駄に長いんであのサイズの方が持ったときに手にフィットするというのもあるんですが.....)
安っぽい作りとはいえ、それでいて本棚などに並べるとデザイン次第で中々雰囲気もある。

近年ではコンビニで販売されている廉価版の本でよくみかけますが日本でももう少し増えていいんじゃないかなと思ってます|ω・`)


◆最近の読書ノート

コルタサル短編集  (岩波文庫)
チャパーエフと空虚  ヴィクトル・ペレーヴィン 
神を見た犬  ディーノ・ブッツァーティ (光文社文庫)
生き残った帝国ビザンティン  井上浩一 (講談社学術文庫)


此処最近と言えば流石に忙しくなってしまってゆっくり本を読む時間というか余裕が無いです。


◆著者愛用の読書・作業用デスクランプ

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フランス、JIELDE社の有名なデスクランプ。
ワークスタイルというか、リネンカーテン+白い壁紙+木目剥き出しのデスクにこれ程似合うデスクランプも他に無い。
イメージとしてはゴダールやマルの映画にちょっとした小道具で出てきそうな。

元々工業作業用ランプとして50年代に考案されたもので断線故障の原因となっていた従来のランプモデルの配線を廃した画期的なデザインで知られています。
ミニマムでデザイン性に優れたスタイルが後に注目され、今では世界中様々なシーンで使われていて基本デザインも50年以上経た今においても殆ど変化していない。
と、言っても現在のモデルはインテリア用として細部のフォルムがよりスタイリッシュになっていますが。ヴィンテージで出回っているオリジナルに近いものはもう少しヤボったい。(そこはそこでまた味ですが)
現在ではカラフルな色やアームが長いモデルも出ているようですがこのランプについては落ち着いたモノトーンカラーの方が味が出る。
徹底的に「MADE IN FRANCE」に拘って作られているものなので値段はそれなりですが非常に丈夫で使い勝手がよく、飽きの来ないデザインなので一生ものとして使えます。デザインランプとしてお勧めです

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Quo vadis, Domine? <クォ・ヴァディス・ドミネ?>

(主よ、何処へ?)

           ペテロ


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最近読んだ本◆

クォ・ヴァディス (クオ・ワディス)


ポーランドの作家、シェンキェーヴィチの長編歴史小説。1896年刊。
シェンキェーヴィチはナショナリズムを鼓舞する立場から故国ポーランドの人物・事件に関する歴史小説をいくつか残していますがやはり世界的に最もよく知られ、各国語に翻訳されている作品と言えばこの「クォ・ヴァディス」な訳です。
僕は未見ですが50年代にハリウッドで大作史劇として映画化されており、「十戒」や「ベン・ハー」といった誰もが知っている戦後スペクタクル史劇の先駆け的存在として観られている模様。

帝政ローマ、暴君ネロの時代を背景にローマの若き軍団将校・ウィニキウスとキリスト教徒として育てられた北方蛮族の王女・リギアの恋をネロやペトロニウス、使徒ペテロ・パウロ等の実在の人物達や悪徳の哲学者キロン、リギアの怪力の従者ウルススのような架空の人物を絡めて展開していく物語。
生粋のローマ軍人であるウィニキウスとアウルス家の養女であり新興の異教徒であるリギア。二人の関係を通して伝統的なヘレニズム精神とヘブライズム(此処では即ちキリスト教精神)の拮抗・摩擦、そしてその中から次第にイエスの教えに心を開いていくウィニキウスの姿を描いた前半。
ローマの炎上、そしてやがて始まるキリスト教徒への大迫害により登場人物たちの運命が流転していく後半。
長編でありながらサスペンスフルでスピーディーな展開は最後まで一時も飽きさせない。
決してお堅い文学作品ではない、魅力的な登場人物達に飾られた純粋な「物語」としての面白みに溢れた作品。
それでいて古代ローマの細かな風俗考証もまったく手抜きがない。

シェンキェーヴィチは列強諸国に蹂躙された当時の故国ポーランド・同胞達を「迫害されるキリスト教徒」の姿と重ね合わせてこのクォ・ヴァディスを書いたと言われています。
この作品に対する典型的評価。

狂気の都ローマにおけるキリストが教える「愛と真理」の勝利という一見なんとも臭いテーマだが.........
もっと普遍的なものというべきか、心に迷いを持った人間達が精神の拠り所としての真理を見出し、感情に変化を来たして行く様を超現実的な奇跡等を通してでは無く、あくまで自然に描いていく。
押し付けがましい宗教臭さは個人的には思った程感じなかった。
(しかしネロの 「暴君の中の暴君」 「俗物の支配者」 的描き方は明らかに露骨なキリスト教徒の視点だな.....とは思いますが)

そしてそれ故に、キリストの真理の前に「排他されるべきもの」とはまた別の見地で捉えられたヘレニズム的な美学・価値観の具象とも言うべき描き方をされたペトロニウスのポジションが本作の中でもまた異色な風合いを醸している。
時として本作の真の主人公は彼ではないかと思う程に。

携帯をようやく機種変更しました。
今までスペアのボロ携帯を使っていたので画質の向上に狂喜するばかりですが。
というのも先々代の携帯が当方の乱暴な扱いのせいでデータ・電源が吹っ飛んでしまったのがそもそも悪いんですけど。

兎に角携帯の画質がいいって本当に素晴らしい。

さて、最近読んだ本について

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「アーティスト症候群」   大野左紀子


「元アーティスト」であった著者が世の中に氾濫する「アーティスト」という呼称、そしてそれに固執する人々を斬りまくる一冊。

アーティストという表現に対するモヤモヤした感情。
この本は常にそういったものを何処かに持っていた自分に特別新鮮な切り口を見せてくれた訳では無かった。
また著者のかなり一方的な主観的見解も多く見られ、「評論」として見るにはどうかなと思う点が無いでもない。
ですがこれはこれでかなり面白かったです。

所謂「アート」の基部を学び、その表現活動にかつて身を置いていた人間が今のこの現状・アーティストという表現に対してここまで率直に物を申した書は今までありそうでなかったのでは。
娯楽感覚でさくさく読める一冊。

ミュージシャン、クリエイター、美容師等各分野において使われるアーティストという呼称について章分けで言及していますが特に面白いのは「芸能人アーティスト」を名指しで斬る章。
工藤静香、片岡鶴太郎、藤井フミヤと言った痛い人々をばっさばっさと斬りまくる様は圧巻。
特に工藤静香のデコトラのネタには思わずカプチーノを吹いた。(真面目に)

一方でかつての(或いは今も)自分にもあてはまる事をずばりと言い放たれてぎくりとなる箇所も所々で見受けられましたが......

「基本を軽視するのは、プロセスが面倒臭いからである」

別にアートというものに限らずに「格言」として成り立つ言葉だが所謂「アート」について言われると色々と思うことがある。
別格的な存在として憧憬の対象となりうる「アーティスト」と言う独特の響き。
実がそれはアートに対する認識がフラットになった現代において「個性」という表現上の武器をもったことで人々の間で知らず知らずの内に「容易で軽い」存在となり、それは「核」が浅いステレオタイプの量産に繋がった。
それでも尚、「アーティスト」という呼称・ポジションはその絶対的なブランド力を失わずに人々を惹き付ける。
人間個人が「盲目的な自信」を潜在的に持ち続ける限り、そのブランド力も永遠不滅なのだろう......  恐らく。

ところでアートというものからは離れてしまいますが.........
自分も今の現状に対する盲目的な視点をいい加減に捨ててそろそろ本気で現実的になろうと思います。
色々な意味で。


◆本日の一枚

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Linton Kwesi Johnson  「LKJ In Dub」

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